ぬいぐるみと喋る人は。。

大丈夫じゃないなという時だからスンナリ納得できて、ホッとしたりする。

『ぬいぐるみと喋る人はやさしい』のぬいぐるみに喋りかける人たちはいろんなところにぬいぐるみを連れて行って写真を撮ったりして楽しめるような、一緒に寝たりご飯食べたりするような過ごし方をしていなかった。そういうのとは違った。

大丈夫な時にあの映画をわたしは見て、ナチョスをともだちと食べながら万全な感じで見て、『ナチョス食べながら映画見るやつ何回でもやろう‼︎』と言ったりしてたから、だから映画を見た時共感や感動で涙がでたりもしたけど、どこかにぜったい違和感があった。

ぬいぐるみと喋る自分という役になりきりすぎじゃない?!『理解ある私たちの輪』の閉鎖感とそれぞれの人が持ってるルールや趣味にみんなで乗っかっているかんじが、嘘くさい。。。 とおもった。

でも大丈夫じゃなくなって思い出して、人とコミュニケーション取るとコップの表面張力ギリギリの水がこぼれる感じで危なくて、でもそういう時の握りしめておける誰か、知っている誰かがいるとちょっと安心をするのだ。

でもそういう時に絶対に絶対に友達と会うとかできるわけがない。逆で、人と会うと良い方向に行くという人もいるので人それぞれだと思う。

自分は恥ずかしくなるから大丈夫じゃ無いところを見られたくはなくて、誰ともあいたくなくて一人でいたくて、一人で考えたりをしたくて、でも状況的には誰かがいないといけない!という時、そういう時にぬいぐるみとかに喋るのをする。

大体はただ事じゃなさすぎて、よくわからなくなっていて、助けてーという思いだけ先走って、自分は置いてけぼりにされているので、ぬいぐるみに話しかける自分は『そうだよねー』とか『ウヒー』とかの声かけしかできない。

私がデュオだったら5秒でもなんでもいいから、心が追いつくまでの時間がほしい。世界に待ってほしいから時間を止める。

気持ちがコップギリギリの時に見たら、本や映画を最後まで見れないぐらい感動すると思った。

音楽が劇中歌も主題歌も本当に本当に良かったなと思った。

悲しい気持ちの時にぬいぐるみと喋る人は優しいの映画を思い出した。

悲しい理由がどんなのであれおかしい事なんかひとつもないし、世界に大丈夫じゃない人は自分だけではないと思って安心したりした。

映画にするってそういうこともあるんだと思う。本も映画も音楽も、誰かの代弁をしている節もある。

金子由里奈さんが作る映画はどれもすごいな、本当に色んな人の心を動かす人だろうな、

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↑ちえみ、のりピー